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電線から学ぶ!成功の秘訣 〜前編〜

明治時代に入り、新時代の幕開けを迎える日本。その象徴の一つが、日本橋で行われたアーク灯のデモンストレーションでした。そして、群集に混じり初めて目の当たりにする「電気の輝き」に見入っていたのが、後に電線製造で大成功を収める兄弟、藤倉善八(当時41歳)と留吉(当時16歳)でした。今回は、そんな2人のあくなき挑戦から、成功の秘訣を探ります!

秘訣その1 新しい可能性を求めよ!栃木の農村から、日本の中心地「東京」へ。

TOCHIGI→TOKYOのイラスト

1843年、栃木県安蘇郡植野村船津川の農家に藤倉善八は生まれました。当時、善八の生まれた家は広大な田畑を持っていましたが、明治に入ってからは度重なる洪水のために収穫が減少。家督を継いだ善八は農業の傍ら水車を借り精米業を開始しました。手広く精米業を営み繁盛したものの、長雨による洪水によって土手が決壊すると、善八の水田は一面湖となってしまいました。精米業は約10年続けましたが、度重なる洪水で収入が安定せず、33歳になった善八は船津川での暮らしに限界を感じ、新しい可能性を追い求めてついに東京への進出を決意します。

秘訣その2 アイデアあるべし!あの市川団十郎を宣伝に起用

市川団十郎のイラスト DANJŪRŌ ICHIKAWA

しかし、上京以来の生活は苦闘の連続でした。手慣れた精米業を続けるために、水車に代わる動力機械に着眼し、日本で初めての蒸気機関による精米を開始しましたが、購入した機械の故障が続き精米事業も頓挫。そこで、当時住んでいた神田淡路町の職人から妻のいねが手ほどきを受けて始めた「根掛け」と呼ばれる“髪飾り用の紐”作りを手伝いました。ここで善八はあるアイデアを使い大成功を納めます。新製品の根掛けを売るため歌舞伎の名優「九代目市川団十郎」に口上(宣伝)を依頼し、「市川掛け」と名付けて客席へばらまいてもらったのです。“あの団十郎が薦めた根掛け”としてその品はすぐに話題となり、全国の問屋から注文が殺到。大成功を納めた善八は、その時42歳。アーク灯を見た翌年の出来事でした。

秘訣その3 常に挑戦者であれ!新事業「絹巻き電線製造」への挑戦

絹巻き電線のイラスト

当時、浅草の「電気館」(電気の見世物小屋、藤岡市助が指導)が話題となり、善八は足しげく通っていました。善八は、日本のエジソンと呼ばれる工学者「藤岡市助」から根掛けの製造技術と「被覆」(電気を通さない素材を電線の周りに巻く技術)の共通点について教わり、日本ではまだ少なかった「絹巻き電線」の製造を薦められます。藤岡はあのアーク灯の点灯実験に携わっていた人物でもあり、善八は迷うことなく新事業の開始を決意。藤岡の助言に従い「絹巻き電線」の製造を神田淡路町の自宅兼工場(創業地)にて14人の従業員と開始しました。そして、製造した絹巻き電線を東京電燈(現在の東京電力)に納入することで、新事業は徐々に拡大。そこで潤った資金を元に、善八は弟の留吉にアメリカ留学を指示します。当時としては大胆なこの決断も、後に藤倉家の事業に大きなプラスをもたらすことになるのでした。

秘訣その4 柔軟な視点を持つべし!宮内省御料地で電線を製造!?

アメリカにいる留吉に新しい機器の買い付けを指示するイラスト

電線事業が軌道に乗ってはきたものの、現状の製造システムで同業他社に太刀打ちするのは困難でした。そこで善八は、アメリカにいる留吉に新しい機器の買い付けを指示。アメリカに渡ったばかりの留吉は無事に買い付けに成功し、善八の商売はその新鋭機器を使ってさらに勢いづきます。そしてより強固な生産体制を確保するべく、ついに本格的な工場の操業を計画。目をつけた場所はなんと新宿の宮内省御料地、現在の新宿御苑でした。そこに流れ込む玉川上水を動力源にし、水車を使って電線の大量生産を行おうと考えたのです。宮内省が運営していた製糸工場の空き家を借り受けることで、善八はさらに電線製造を本格化させていくのでした。

CHECK!電線製造工場は玉藻池のすぐそばにありました!

一般社団法人日本公園緑地協会
「公園緑地」第11巻第1号(昭和24年発行)
P20 平面図 ′明治初期の新宿御苑′より作成

新宿御苑(明治初期)MAP